脇見恐怖症に苦しんだ半生 ~脇見恐怖症の発症と深刻化~

この記事は、私(当ブログ管理人)の、数年間に渡る脇見恐怖症の体験談です。

何をきかっけに脇見恐怖症を発症したのか、脇見恐怖症と共にどんな人生を送ってきたのかを綴っています。

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私は、小学の頃は明るくて活発な、普通の子供だったように思います。友達もたくさん居て、毎日一緒に外で遊んだり、テレビゲームをしたりして過ごしていました。生き物の本が好きで、学校の図書館にあった「ファーブル昆虫記」とか「シートン動物記」をたくさん読みました。夏休みの自由研究は毎年昆虫採集をして、色々な種類のクワガタムシとかカミキリムシなどを採っていた記憶があります。勉強もかなり好きな方で、特に算数は人一倍頑張っていた気がします。

この頃はまだ精神的な問題は出てきていませんでしたが、後に脇見恐怖に陥っていく素地を示すようなものが既にありました。

まず、小学校2年くらいの頃から赤面症がありました。授業中に先生に当てられたり、大人数の前で話をするときなどに、自分ではそれほど緊張を感じていないつもりでも、自然と顔が赤くなっていきました。周りの人にそれを見られて笑われてしまうこともありました。みんなから注目されたり、人前で喋ったりすることを疎んじるというよりも、顔が赤くなっているのが皆にバレてしまうのがとにかく恥ずかしかった気がします。人前での態度とか話し方はいくらでも自分で工夫ができるけど、顔が赤くなるのは自分ではコントロールできない点が辛いところでした。不思議なことに、顔が赤くならないように、冷静になろう!気持ちを落ち着かせよう!と思えば思うほど、ますます顔が赤くなってしまうんです。自分ではどうしようもない大きな障害だったけど、この時はまだ後の視線恐怖ほど深刻に思い詰めずに済んでいました。

書痙(しょけい)もありました。たしか小学校の中学年くらいだったと思いますが、夏休みの宿題で、休みが終わる数日前になってもまだ片付いていない課題がありました。冷静に考えれば残りの時間にしっかり取り組めば十分に終えられるようなものだったと思いますが、「あと~日で夏休みが終わってしまう!」「もし終わらなかったらどうなるんだろう・・・」という強い緊張感を感じました。そういう気持ちの中でいざ課題に取り掛かって文字を書こうとすると、なぜか手が震えて文字が書けませんでした。こんな経験をしたことが無い方には不思議に思われるかもしれませんが、どんなに意識を集中させて書こうとしても、自分の意志通りに手が動いてくれなくなるんです。緊張感とは関係の無いこと――例えば服を着替えたり、歯を磨いたり、食事をしたりすることはまったく問題無く、思い通りに手を動かせました。でも課題に取り掛かろうとした途端に急に手が動かなくなってしまいました。

書痙は一般的には対人恐怖症の一種で、人前で字を書くことに恐怖を覚えるとされることが多いようですが、私の場合はそういう要素が無く、ただ時間的なプレッシャーから手が動いてくれなくなったような気がします。

また、足の踏み場への拘りが強くありました。これはおそらく幼稚園の頃から微かにあったような気がします。家の廊下や階段、部屋の中など、至る所で足の踏み場に関する自分なりのルールを詳細に作り上げていました。必ず左足で踏まなければならない場所、右足で踏まなければならない場所があったり、ある場所とある場所は必ず何歩で進まないといけないといったもので、どんな時でもその場所を通るときはルール通りに歩きました。たまたまルール通りに行かないことがあると、すごく居心地の悪いような、苦しい思いを感じました。いわゆる強迫性障害と呼ばれる症状の軽い段階にあったのだと思います。

ただ不思議なことに、こういった兆候はすべて、後に視線恐怖症が出てくると完全に消えてしまいました。自分の持っている恐怖、不安、緊張、そういった過剰な精神的エネルギーのすべてが、視線への意識に注ぎ込まれていったのではないかと思います。

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視線の問題に最初に躓いたのは、小学6年のときでした。

クラスの朝礼か何かで、生徒全員が椅子を引いて起立する場面がありました。私の席は、教室の右側の後方(先生から見ると左側の奥の方)に位置していました。その場所から自分の左前、黒板の中央の方向に視線をやっていました。その方向にはある女の子の席があって、その女の子もクラスの皆と同じように起立していました。仮にその女の子のことをAさんとします。

何気なく黒板の方向を見ていただけなのですが、ふと、Aさんの隣の席の別の女の子が、私の方をチラチラ見たり、Aさんに耳打ちしているのに気付きました。その隣の女の子をBさんとします。最初は何とも思わず気にしていなかったのですが、Bさんは私の方を何度かはっきりと見てきたから、少し頭の片隅に引っかかりました。そのときの私は、Aさんのことをじっと見つめていたわけではないし、何か意識していたわけでもありませんでした。そもそも教室で黒板の方向を見るのは当然のことだし、そのことが何か変な印象を与えるわけではないと思います。

その後、これと同じようなことが何度かありました。AさんとBさんが何やらキャッキャッと話をしながら、時折こちらを見てくるんです。AさんとBさんは私の前方にいて、常に視界に入っている中での出来事だから、自然と目についてしまった気がします。

しばらくすると私もAさんのことが少しずつ意識に上り始めてきました。それまではそこにAさんという人物が存在することをほとんど意識すらしていなかったのに、Aさんという人が自分の斜め前に居る、そしてそのAさんは私が後ろに居ることを意識しているんじゃないかということを、頭の中に思い浮かべるようになったんです。

まだ本格的に発症する前だから自分の視線に対してほとんど何も感じていなかったけど、Aさんの存在が頭の中に引っかっているせいか、Aさんの後ろ姿をぼんやりと見てしまう瞬間が何度かあったかもしれません。

もしかしたら、Bさんはそんな瞬間の私の視線をはっきりと認識したのかもしれません。そのうちにBさんが「~(私の名前)がAちゃんのことを見ている!」とクラスで吹聴するようになったんです。

嘘だ!見ていない!と思いました。でも、Aさんのことを意識したせいで、ぼんやりと見てしまっていたのは確かに事実かもしれないという感覚もありました。心の中に強い葛藤が生まれました。Aさんのことなんて意識していない、見ていない!という反発心と、もしかしたら本当は見てしまっているのかもしれないという恐怖感が共存していました。

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こんな感情を経験したことによって、生まれて初めて、自分の視線というものを強く意識し始めました。自分の視線はどういう状態になっていて、どちらの方向を見ているのか。他人が自分の視線を見たときに、どんな印象を受けるのか。視線を送られていると感じるのか、それとも感じないのか。そんなことを考えるようになりました。後から考えると、それまでは普通の小学生として生きてきたのに、このとき初めて異常な世界へ一歩踏み出してしまったのだと思います。

自分の視線への意識が始まってから、どうしても他人を見てしまう癖ができました。常に自分の視線のことを考えていると、他人が自分の視線を見ているかどうかが気になって、他人を見てしまうのです。他人を見てしまうと、時々気付かれてしまうこともあります。だから視線をそむけて他人を見ないように意識します。でも視線をそむけることに成功しているかどうかは自分ではわからないのです。自分の視線がおかしくなっていないか、他人にそれが見つかっていないかどうか、それを確認するためには結局この目で他人を見るしかないんです。するとまたその視線に気付かれたかどうかが気になってしまう・・・。

自分の視線を意識するが故に他人を見てしまう。するとますます視線への意識への拘りが強くなり、また他人を見てしまう。このループが永遠に繰り返されます。こうして、どう足掻いても絶対に抜け出せない、視線の底無し沼に嵌っていったようでした。

視線を気にする相手は最初はAさんだけでした。でもそれがAさんの周辺の友達、Aさんとは関係の無い自分の友達、さらに顔見知り程度のクラスメイトにまで少しずつ広がっていきました。

やがて家の中でも家族に対する視線を気にしてしまうようになりました。食事の際や居間で家族で一緒にいるときに、自分の視線のやり場に困るようになりました。最も気になったのは、家族と一緒にテレビを見ているときでした。テレビを置いているテレビ台や、その横にあった茶箪笥の透明なガラス部分に、テレビを見ている家族の顔が写るんです。テレビを見ていると、どうしてもそのガラスに移った家族の方を見てしまうのが気になって仕方ありませんでした。テレビを見ようとしても集中できず、視線のことばかり意識するようになりました。

すべてが自分の妄想であったなら、簡単に片付けることができたかもしれません。でも、友達からはっきりと「こっちを見てる」と言われたこともありました。事実としてそう言われた以上、妄想の少なくとも一部は現実でした。どこからが妄想でどこから現実なのか、どこに妄想と現実の境界線が引かれるのか、あるいは自ら引くべきなのか、全くわかりませんでした。

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やがて中学に上がりました。狭い田舎街の唯一の中学校だったから、入学する生徒は小学校とほぼ一緒でした。

中学に入って、視線に対する意識はますます強くなっていきました。人前でどんな態度を取ればいいのか、どういう風に視線を動かせばよいのか、普段どんな心持ちで生活すればよいのかわからず、頭の中も言動も全てがギクシャクしてきました。人と会話するときに目のやり場に困りました。廊下などで知らない人とすれ違うときにも、視線をどこに向けておけばいいのかわからなくなりました。

視線を気にする対象は当初、友達や知り合い関係にある人だけだったのが、家族・親戚へ広がり、学校の生徒・教職員全員に広がり、とうとう視界に入る人全員になりました。街ですれ違う人、信号待ちをしているときの道路の反対側の人、親が運転する車に乗っているときは対向車に乗っている人や信号待ちで隣り合う人・・・とにかくありとあらゆる人に対して、自分の視線をやってしまっていないか、視線に気付かれていないか、奇異に思われていないか恐怖しました。

365日24時間、視線のことばかり考え、自分との対話を繰り広げるようになりました。すべては自分で作り上げた妄想だ!と思う瞬間もあれば、現実に起こっている現象を思い起こして途方に暮れることの繰り返しでした。1日が終わると、何もしていないのにグッタリと疲れました。こんな毎日が続くなら死んだ方が良いと思うようになりました。

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この頃、最も苦しくなってきたのが、視界の脇に入る人を意識してしまうことでした。学校の教室のように整然と並んだ配置で自分の真横に人が居る状態だと、ずっとその人のことを意識していないといけませんでした。視線のことを考えなくて済むように、眼の脇を遮るように頬杖をついたりして工夫しました。ずっと目を開けていると隣の人に視線を気付かれると思い、片目ずつ交互に開けて教科書を見たりしました。でも、そういった工夫もむなしく膠着感はどんどん強くなって、しまいには授業中に目を開けることができなくなり、一日中顔をふせて寝たふりをするようになりました。誰にも理解されない、常軌を逸した化け物のような人間になってしまったと思いました。

隣の席の人は、「見ている!」「気持ち悪い」と陰口を言いました。隣の人も私のことを視界に入れないように、頬杖をついたり、髪で横顔を隠したりするようになりました。もちろんこれは直接聞いたわけではないから、どこまでが私の視線のためにやった行為なのか、あるいはまったく関係が無い行為なのかわからなかったけど、そのわからないことがますます不安を煽りました。

視線の両脇が気になる癖は、私の人生で最も苦しくて、長引いた症状でした。この癖が出てきてから長い間、この癖をどう位置付け、理解すればよいのかわかりませんでした。普通の人間がこんな状態になるなんて到底思えないし、かといって明確に病気として知られているわけでもない。一体これは何なのか、自分の精神に何が起こっているのか、どんな異世界に入り込んでしまったのかわからなくて、不安でたまりませんでした。

でも、高校2年生くらいのときに、図書館にあったぶ厚い精神医学事典の中に「脇見恐怖」という言葉を初めて見つけました。今となっては何という名前の事典だったかわからないから確認はできないけど、そこにはまさに自分が悩んできたような「自分の目のやり場に困る、特に視線の脇を気にする、見たくないのに見てしまう」といった症状が書かれていた気がします。読んだ瞬間に「これだ!」と思いました。このときに始めて、自分が何年も悩んできたものに名前が与えられました。この症状をどう解釈すればよいのかなんとか理解できるようになりました。

医学的な理解をすると、まず視線恐怖症と呼ばれる症状の一群があります。この中には、他人から見られることや、他人の視線を意識してしまうことに苦しむ通常の視線恐怖のほか、自分の視線の異常さに苦しむ自己視線恐怖症というものがあります。脇見恐怖はこの自己視線恐怖症に含まれるものであり、特に自分の視線の両脇に意識が集中したものだという風に整理することができます。

ただ、こうやって体系的な解釈ができたからと言って、脇見恐怖の症状が和らぐことはありませんでした。どんな病気なのか理解しても、それで治るわけではありません。苦悩の日々はまだまだずっと続きました。

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学校の教室では勉強に集中できなかったら、勉強は全て自宅でやりました。普段は精神的にボロボロ過ぎて勉強どころではなかったから、テスト前1週間になるとテスト範囲の内容をゼロから独学でやり始めて、なんとかテストに間に合わせるということを繰り返していました。

人と言葉を交わすことも難しくなり、友達を1人、2人と失い、最後には完全に居なくなってしまいました。部活にも全く出れなくなりました。

学校を休む日も多かったです。親には黙って休まないといけなかったから、朝、いつも通り家を出てから公衆電話で学校へ連絡を入れて、それから人目につかない河原や公園、近所の山の中などへ行き、1日時間をつぶしました。たった1人で、誰にも気付かれず、誰も視界に入れずに過ごす時間は自分にとって唯一リラックスできる時間でした。でももちろん、それはほんの一時的、表面的な休息でした。夕方になれば家へ戻らなければならないし、明日になればまた脇見恐怖との格闘が待っています。それに、わざと人の居ない河原に逃げて時間をつぶすなんて、客観的に見ればあまりにも異様な行動で、犯罪者にでもなってしまったような気もしました。こうやって頻繁に学校を休んでいたから、高校は必要な出席日数ギリギリで卒業しました。

両親は自分の子供に異常が起こっていることに明らかに気付いていたはずなのに、ずっと見て見ぬ振りをしていたと思います。きっと子供のことで問題に直面して、自分たちの平穏な生活が乱されるのが嫌だったんだと思います。私はそういう両親の性格をよく知っていたから、何も相談はしませんでした。

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たしか高校2年か3年くらいのときに、勝手に保険証を持ち出して、隣町の精神科にこっそり行きました。(自分の町は田舎だったので、精神科はありませんでした。) そこで精神科医と心理カウンセラーに会い、自分の症状のことを話しました。精神的に追い込まれていること、対人面で大きな問題を抱えており治療が必要なことは理解してくれたようですが、脇見恐怖という症状そのものは全く理解されませんでした。次回は親と一緒に来るように言われましたが、親に病気のことを説明したくなかったから、それ以来病院へ行くのは辞めました。

今思うと、問題をあまりにも放置し過ぎたのだと思います。無理に学校に行き続けたからどんどん症状がひどくなり、泥沼にはまって行きました。学校など辞めてしまってもいいから数年じっくり治療にあたって、それから社会復帰することを考えても良かったんです。でもそんな思い切った決断はできず、一日一日を乗り切ることで精一杯でした。

自分のことを他人に打ち明ける勇気も必要だったと思います。あまりにも異常で、くだらないことばかり気にする人間だと思われるのは恥ずかしかったから、誰にも何も言えませんでした。唯一こっそり行った精神科で打ち明けただけで、身の回りの人には完全に黙ったままでした。

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中学から高校の6年間、本当に辛くて言葉も出ませんでした。何かに反発するということもできませんでした。どんなに苛立ちや恐怖を感じても何かにぶつけることもできず、すべて自分の胸の内に秘めて、悲壮感にまみれながらじっとしていました。なぜこんな地獄のような人生を送らなければならないのだと思いながら生きていました。

自殺念慮も強くありました。でも学校の知り合いにあいつが自殺した!と思われるのが悔しかったから、中学の頃は中学を卒業したら死のうと思っていました。結局死なずに高校へ入学しましたが、今度は高校を卒業をしたら死のうと思いながら過ごしました。高校を卒業した直後はいよいよ実行に移そうと思い、ホームセンターでロープを買ってきて、家の階段にロープをかける場所を用意しました。実行するなら家族が寝静まった深夜にしようと決めていました。それから毎日夜になると、実行するのかしないのか、生きようか死のうか悩み続けました。数か月の間、生と死の間の際どい境目を生きていたと思います。死ぬことばかり考えて朝まで眠れなかった日も多かったです。涙がボロボロ出てきて、朝には枕がぐっしょりしてしまった日もありました。

もう自分はこの先、どうやっても生きていけないし、生きていく手段を完全に断たれていると思いました。でも死ぬこともできないんです。精神はボロボロでも、体は丈夫でした。心臓は勝手に動くし、食欲も湧いてくるし、朝になれば目が覚めてしまうんです。どんなに頭で死のうと意志しても、体の根底には生きようとする強いエネルギーがあるような気がしました。

この時、親には大学に行きたいから一年浪人すると説明していて、客観的には浪人生という立場で、何もせずに悩むだけの日々を過ごしていました。結局、数か月間悩んだ末に、やっぱり生きようと思い直しました。勉強したいという意欲はすごく強かったし、田舎を出て東京の大学に行き、人生を変えたいという気持ちもありました。夏頃になってやっと来年の大学受験に向けて勉強を始めました。

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勉強と言っても、塾や予備校に行けばまた脇見恐怖で集中できず時間を無駄にするから、自宅や図書館などの隣に人が来ない場所で独学で受験勉強をしました。いわゆる宅浪というものです。いちおう受講料がものすごく安い、代々木ゼミナールの通信教育のものだけ入りましたが、それはほとんど何もやりませんでした。両親は2人とも学歴が無くて受験勉強のことなど何も知らなかったから、特に何かをしろとは言われませんでした。

高校の時に受けた模試で数学の成績がすごく良かったことがあって、代々木ゼミナールからかなり安い授業料で授業を受けられる特待生の案内が来ていたけど、これを受講しようと思ったら遠くの街に下宿するなどして学校に通わないといけなかったから、諦めました。教室に行けば必ず脇見恐怖が問題になるし、人間関係も生まれてきます。そんなところで何か月もやっていけるとは思えませんでした。

もしここできちんとした教育を受けることができていたら、全く違う人生になっていたと思うと本当に悔しくてたまりません。勉強は好きだったし、数学や物理はかなり得意な方でした。数学などは学校の授業のスピードが遅すぎて、一人で何か月分も先取りして独学するほどでした。きちんとした教師に出会ったり、良い授業を受けることができていれば、もっともっと成績は上げられたと思います。脇見恐怖のような障害さえ無ければ、偏差値も、行ける大学のレベルも全く違ったはずでした。受験から何年も経った今でも未だに悔しい気持ちがおさまりません。

一人の受験勉強は本当に苦しかったです。誰も相談できる相手はおらず、高校時代の勉強もきちんとできていないまま、たった一人で参考書や問題集を使って勉強しなければいけませんでした。何の頼りもなく暗闇の世界を歩いて行くような不安や孤独に悩みながら勉強をつづけました。

入試のときは自分で眼鏡の脇にガードのようなものを取り付けるという方法でしのぎました。言葉だけでは伝わりにくいかもしれないですが、レンズを囲む枠の部分から、眼鏡の横に伸びるテンプルと呼ばれる部分にかけて、アロンアルファでゴム製の膜を取り付けたんです。こうして、眼鏡をかけたときに視界の横の方が遮られるようにしました。よくフレームが太い眼鏡とか、脇の方まで覆うサングラスなどはありますが、私が作ったのはごく普通の眼鏡に奇妙なガードを取り付けたものです。傍から見たら異様な光景に見えたと思います。試験監督などに「その眼鏡は何ですか?」と聞かれたら何も答えられないし、怪しまれて試験を受けられなくなったり、眼鏡を外せと指示されるかもしれませんでした。もしそうなったら一貫の終わりであって、入試は受けられない、大学へ進むことはできないということでした。だからこの奇妙な方法で乗り越えるしか無かったんです。たったこれだけの装置が、私の人生を次へ繋ぐ唯一の希望でした。

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